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REVIEW · フェス・音楽祭

日韓交流おまつり2025 in Seoul――文化交流が一つの公演になるとき

公開 2025-10-13 · 更新 2026-10-24 · CROSSWAVE EDITION

日韓交流おまつり2025 in Seoul――文化交流が一つの公演になるとき
DATE2025.10.12VENUEソウル・COEXTIME日韓交流おまつり2025 in Seoul

日韓関係を語るとき、「文化交流」という言葉をよく耳にする。けれど、その意味を会場で実感できる機会は意外に少ない。交流行事の多くは象徴的な意味が先に立ち、公演は付随するプログラムとして置かれがちだからだ。

2025年10月12日、ソウルのCOEXで開かれた日韓交流おまつりも、名称だけならそうした催しの一つに見えた。 意義は十分に伝わっても、ステージそのものは記憶に残らない。そんな行事も少なくない。

その点、今回のおまつりは構成から少し違っていた。伝統芸能や体験ブースを軸に据えるというより、公演が催しの中心にあった。「交流のために公演を行う」のではなく、公演を楽しむうちに自然と交流が生まれる形に近い。この差は思いのほか大きい。観客は説明を聞いて理解するよりも、ステージを見ながら受け止めていく。

「日韓歌王戦」のその先へ――マサヤとタクヤ

今回、最もはっきり見えた軸は、韓国の音楽対抗番組「日韓歌王戦」男性編に日本代表として出演したマサヤとタクヤだった。二人の役割は単なるゲスト出演というより、番組を通じて育まれた物語を実際のステージへ運ぶことに近かった。

テレビが生み出した人物像は、通常は画面の中にとどまる。視聴者が覚えているのは編集された場面であり、公演もその延長として見られる。しかしこの日は、すでに知っている人たちが現実の空間へ歩み出してきたように感じられた。客席の反応も、初めて見る海外の歌手に向けるものではなく、知っているステージに再び出会うときのものだった。

興味深いのは二人のステージの性格だ。トロットを歌おうとするわけでも、日本の歌謡曲の流儀だけにこだわるわけでもない。発声や表現は明らかにJ-POPのボーカルの文法に沿いながら、客席との呼吸や進行は韓国の公演のリズムに寄り添っていた。楽曲そのものを混ぜるのではなく、聴き方をつなぐという印象が強かった。

「日韓歌王戦」も、「韓国トロット対J-POP」という対比で語られてきた。ただ、会場で感じられたのは競争よりも鑑賞の仕方の違いだった。日本のボーカルは旋律と声色を軸に積み重ね、韓国のステージは観客との呼吸で完成していく。この日の二人は、その間を自然につないでいた。

ここが大切だ。交流公演がぎこちなくなるのは、異なる様式をただ並べてしまうことが多いからだ。進行表では理解できても、一つの公演としてはつながらない。今回は様式が違っても流れが切れず、観客は比較せずにその流れについていけた。その瞬間、ステージは「行事のプログラム」から一つの公演へと変わった。

ステージの外へ続く物語――客席の竹中雄大

物語はステージの外にも続いていた。「日韓歌王戦」に日本代表の1位として出場した竹中雄大は、この日の出演者ではなかったが会場に姿を見せた。前日には自身のバンドNovelbrightの韓国公演があり、その公演後にCOEXを訪れたようだった。

· 2025.10.12 ソウル・COEX 会場写真

印象的だったのは、客席の一角に座ってマサヤのステージを見守る姿だ。出演者ではなく観客として見るその姿は、単なる鑑賞というより、番組後も続く関係を感じさせた。画面ではライバルとして見られていた人たちが、現実には互いのステージを見守る。「日韓歌王戦」の物語は、その瞬間に放送を越え、現実の時間へと移っていく。

交流行事は舞台上の人々だけで完結しがちだが、この日は違った。出演しない人まで会場の一部となり、公演の文脈が広がった。観客には単なるゲスト公演ではなく、「物語は続いている」という感覚を残す光景だった。

平野綾――ジャンルを越える存在感

もう一つの軸は平野綾だった。韓国の一般の観客にはポップシンガーほどなじみがないかもしれないが、日本の大衆文化に触れてきた人なら、その声を耳にした可能性は高い。「涼宮ハルヒの憂鬱」の涼宮ハルヒや「DEATH NOTE」の弥海砂など、2000年代後半を代表するアニメのキャラクターを演じて知られるようになり、その後も俳優や歌手として活動の幅を広げてきた。

だからこそ、そのステージを単に「J-POP公演」と説明するのは難しい。通常の歌手の公演が楽曲を中心に組み立てられるとすれば、平野綾は場面そのものをつくる。歌とともに表情、動き、視線まで一つの演技としてつながり、観客は曲を聴くというより、その場面を追いかける。声優として人物の感情を伝えてきた経験が、生のステージへ移されたようだった。

会場の反応も独特だった。特定のファン層だけが盛り上がるのではない。日本文化に親しんできた観客は、なじみの声に現実の空間で出会う体験として受け止め、初めて見る人はステージの没入感に引き込まれる。知っている人だけが楽しめるのではなく、知らなくても自然についていける公演だった。

やがて観客の層が混ざり始める。アニメファン、日本の音楽のファン、ただ公演を見に来た人が、同じところで反応する。ジャンルごとに客席が分かれる代わりに、届け方そのものが観客を一つの流れに束ねていた。交流公演で生まれがちな距離をほとんど感じなかった理由も、ここにある。

平野綾の存在が意味を持ったのはこの点だ。国籍やジャンルを説明する前に、公演そのもので観客とつながっていた。交流行事の象徴となる出演者は多いが、実際に会場の空気を変える出演者は少ない。この日の平野綾は、後者に近かった。

おまつりが「公演」になる瞬間

日韓交流おまつりの特徴もここにある。本来は伝統文化体験、食、観光PRなど、文化を紹介する性格の強い催しだ。しかし今回の公演部分は、その逆の順序で動いていた。

· 2025.10.12 ソウル・COEX 会場写真

説明して理解してもらう代わりに、ステージで共感を生む。文化紹介というより、文化を楽しむ体験に近い。観客は日本文化を学ぼうとするのではなく、まず公演を楽しむ。その後に自然と、国やジャンルの違いへ目が向く。

この順序は意外に重要だ。交流は理解からではなく、楽しさから始まる。楽しいから関心が生まれ、関心があるから理解につながる。今回のステージはその順序をたどっていた。

違う歌、同じ方向

マサヤとタクヤは韓国の公演の呼吸を取り入れた日本の歌を届け、平野綾はキャラクター性とパフォーマンスを軸にしたJ-POPを見せた。ジャンルだけなら共通点はほとんどない。

それでも公演全体を振り返ると、むしろ一体感が残る。音楽の様式ではなく、ステージに向き合う姿勢が同じだったからだ。説明や説得を重ねず、まず見せる。観客は「交流行事に参加した」よりも先に、「いい公演を見た」と感じられる。

その意味で、これは日韓の交流行事というより、日韓共同の公演に近かった。国籍より先に、ステージがあった。

今回のおまつりが心に残ったのは、特別なメッセージを届けたからではない。むしろ、それを前面に掲げなかったからだ。異なる音楽が同じ空間で自然につながる。その事実だけで、すでに十分に伝わるものがあった。

交流は宣言だけでは生まれない。ステージに向けて観客が拍手を送る、その瞬間に初めて形になる。今回の日韓交流おまつりは、その光景を見せてくれた。